「行動する人を冷笑する人ほど知らずのうちに自身の行動に制限をかけていると思っている話」
今回は、行動する人を冷笑する人ほど知らずのうちに自身の行動に制限をかけていると思っている話です。
世の中には、何かに対して行動する人たちに対して、あの人たちの行動は本当に意味わからないよね、とばかり言っている方がいると思います。
何かに行動する人たちに対して、どこか冷笑しているというか。
確かにその行動の内容次第では、自らもそのように思うかもしれませんし共感することはあるかもしれません。
一方このような冷笑するのが癖になっている人には、ある種の弱さも併せ持っていると思っています。
それは行動している相手を冷ややかな目線でみるという矢印が、知らぬ間に自分にも向けられて、自身の行動にも制限をかけているという事実です。
つまり、あれもしなくてもよい、これもしなくてもよい、という選択肢ばかりとるようになった結果、何も経験・体験が積まれて行かないということになります。
これはとてももったいないことであり、またその中には当然、少しだけ興味はあるのに誰かに冷笑されそうで行動に踏み切れない、というものも含まれます。
さらにもう一つここで立ち止まりたいのが、その誰かというのは他の誰かの声のようで、実は自分自身だったりしないかということもあります。
何事も効率が正義とされる現代であっても、必ずしもすべての場面において効率さが必要とされているわけではありません。
最低限、社会に仕えるときだけは効率を意識すればよくて、それ以外の、興味関心が沸いたものについては全力で「一見無駄」で「非効率」なことをしていくのかが大切だと思います。
私もこれまでいくつもの「一見無駄」で「非効率」なことをしてきて、なんでそんなことやってるのと自分でも思ったり、誰かにもいわれたりしたことがあります。
でも、どれだけ「一見無駄」で「非効率」だったかを含めてエピソードトークとして誰かに話してみると、皆さん案外興味を持って聞いてくれることにも気づくことができました。
やはり誰しも興味関心はあるのですね。
少なくともエピソードにはなる、そして誰かと私の笑いの種になったら成仏される、シンプルにそのようにしていこうと思いました。笑
ということで少し本題からはそれてしまいましたが、今回はそんなことを考えたお話でした。
最後までブログを読んで頂き、ありがとうございました。
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